1972年にDr. Raymond E.
Wiech Jr.はMIMを発明し、共同設立者(4名)としてカルフォルニアに『パーマテック社』を立ち上げ(1973年頃)、MIM量産技術を確立する。後に脱脂を加熱に変えた「ウイテック法(加熱脱脂)」を考えて独立(1981)する。(結局、創業者4名はライセンス分野を分け合って友好的に別々の道を歩み始める)
日本国内では・・・遅れること10年・・・
国内メーカーは独自でMIMの研究開発を開始する、そこに「パテント黒船襲来」ウイテックからの特許抵触のアナウンスに恐れ、かなりの国内企業がウイテック法に傾倒すると、ウイテックジャパンを設立する。そこで一手にフィードストックを販売していく。しかしその中で特許に抵触しない製法を持つ企業も存在する。さらに元祖であるパーマテック法を採用した日本企業も2社『M社(現在休眠中)とJ社』あった。この3つ流れが今も続いている。 追加20190911:N社のAMAX法を忘れていました。溶剤脱脂でパーマテック法の亜流です。
日本国内では・・・遅れること10年・・・
国内メーカーは独自でMIMの研究開発を開始する、そこに「パテント黒船襲来」ウイテックからの特許抵触のアナウンスに恐れ、かなりの国内企業がウイテック法に傾倒すると、ウイテックジャパンを設立する。そこで一手にフィードストックを販売していく。しかしその中で特許に抵触しない製法を持つ企業も存在する。さらに元祖であるパーマテック法を採用した日本企業も2社『M社(現在休眠中)とJ社』あった。この3つ流れが今も続いている。 追加20190911:N社のAMAX法を忘れていました。溶剤脱脂でパーマテック法の亜流です。
というわけでこの3つの流れの中で日本MIMメーカーはどのように発展したのか
① 元祖パーマテック法を採用した企業は、独自にフィードストックを開発
溶媒脱脂であるため大物ができるようになる
②
ウイテック法を採用した企業は、標準カタログのフィードストックを購入
加熱脱脂であるため小物中心で、企業間の品質の差がほとんど無い
③
独自製法の企業(国内最大メーカー)は、独自のフィードストックを開発
(いろいろ発明あれど加熱脱脂が主流)トップを独走、業界を牽引していく
1991~2000年 (第二世代)開国成長期 自力・他力でとにかく量産開始
パーマテック、ウイテックの基本特許・技術契約切れる
全く新しい工法出現。BASF法(触媒脱脂)など
1997年 MIM関係論文数ピーク22件
2001年~ (第三世代)自然淘汰・進化時代
設備の老朽化と担当技術者定年に合わせるように撤退・統合
技術的(Q,C,D)に優位性のある企業がさらに発展する
スーパーアロイ(超合金)のMIM論文が発表される
(いろいろ発明あれど加熱脱脂が主流)トップを独走、業界を牽引していく
1980~1990年 (第一世代)鎖国的研究開発時代 各社独自に研究開発 (今の3Dプリンターのようなインパクトがあったようだ)
1988年~大学等の研究論文も発表され始めるパーマテック、ウイテックの基本特許・技術契約切れる
全く新しい工法出現。BASF法(触媒脱脂)など
また、国内フィードストックメーカーも出現する
一方、後半には、MIM廃業する企業が出始める1997年 MIM関係論文数ピーク22件
2001年~ (第三世代)自然淘汰・進化時代
設備の老朽化と担当技術者定年に合わせるように撤退・統合
技術的(Q,C,D)に優位性のある企業がさらに発展する
スーパーアロイ(超合金)のMIM論文が発表される